つまらない恐れについて

立派なことを語るには、それなりの資格が必要だと思っていた。経営経験のない経営コンサルタントや作品を作ることすらできない批評家を冷めた目で見ていた。通信空手黒帯とか童貞の恋愛指南みたいなものだ。実態がない。

本物の知識は、最前線でリスクに身を晒す中で生み出される。ナシーム・タレブが言うところの「身銭を切る」連中だ。信用できる人間は現実と格闘している。現実と格闘するから一次情報を生み出せる。これが違いを生み出す。

現実と格闘すると戸惑うことがある。目の前には生の情報しかなく、理論書のように明確な意味の境界が存在しない。目の前に転がっているのが石なのかじゃがいもなのかもわからない。ここで初めて、世の「理論」や「方法論」が欠陥だらけだと気付く。おそらく、真のプロフェッショナルへの目覚めはここから始まる。

それでもなお、理論に惹かれるのはなぜか?それはこの世界が混沌としているからだ。私たちは明快な説明を求める。

最近気付いたことは、明快な説明が可能になる理論には、肩書きも実績も不要だと言うことだ。

そんな馬鹿なと思うかもしれない。ここで少し想像力を働かせてみよう。

君自身が専門性を発揮している領域をイメージして欲しい。その領域でややこしい状況をもたらす問題があったとする。ある日noteに1000から2000字程度の簡潔でありながら、明快に問題を説明でき、解決策を提示できる理論が掲載された。一般大衆はそんな専門的な記事に熱中しないが、スペシャリストたる君はその記事に驚き賞賛を贈る。まさにその通りだと膝を打つ!現在参画しているプロジェクトにも適用できそうだと思考を巡らせる。新しいレンズを見つけた貴方は久方ぶりの知的興奮を味わう・・・。

ふと思い立ち著者を調べてみる。なんと著者は小学生だった!

さて、貴方の知的興奮は著者に属性の影響を受けるだろうか?貴方は既に専門家であり、その貴方を興奮させたその内容が果たして著者が小学生で専門的経験なんてなさそうだと言う事実が影響するかだろうか?

もし貴方が本物の専門家であれば影響しないと思う。理論も現実も知った貴方は内容で物事を判断できる。現実と格闘してきたからこそ、権威性に影響されなくなる。

著者が小学生ならそれを馬鹿にするよりも、純粋な驚きと末恐ろしさを感じることだろう。もしチャンスを配れる大人なら青田買いだってするかもしれない。つまりポテンシャルと実態のギャップを察知して、エンジェル投資家のような存在が現れる。著者の小学生は、同級生に比べて突然のチャンスの扉が開く。

何が言いたいのか?

本物は常に少数である。彼らは権威性ではなく内容で判断する。

内容が本物であれば、本物の専門家はそれを「内容に基づいて」評価する。肩書きや実績は関係ない。

内容で判断できない人間は偽物なので別にどうでもいい。(浮動票が好きでたまらない人は政治家にでもなったらいい)

従って、貴方の頭の中に革新的なアイデアや理論があるのに、言語化できていない人は恐れないで発信して欲しい。肩書きや実績が不十分で説得力に欠けるなどと考えないで欲しい。

確かにまだ現実での検証が不十分かもしれない。でも気にするな。どんなものでも最初は仮説なんだ。ダサい奴と思われるかもしれないし、偽物みたいにも感じるだろうが、そんなものだ。気にするな。

大事なことは「本物を作ろうとする意思」と「本物の作品」である。それを「少数の本物の人たち」に届けることに集中しよう。貴方が本物であれば、いずれ大量の投石と支持者が湧いて出てくる。どちらも遅行指標に過ぎない。

恐れることなく、ただ本物であろう。