創造性とは言い訳である。
そう聞くと、一見ネガティブに感じられるかもしれないが、実は「言い訳」という行為には、私たちの想像力を最大限に発揮する要素が秘められている。何かを正当化するために必死に考えを巡らせるとき、人は意外なほど多角的な視点や新しいストーリーを紡ぎだす。その最もわかりやすい例が、たとえば遅刻したときの言い訳だ。寝坊や些細なうっかりを取り繕うために、電車の遅延だの急な用事だの、やむを得ない事情を「それっぽく」組み立てる。その過程はまるで小説のプロットを考えるように複雑で、ちょっとした演出力すら求められる。
しかし、言い訳とは何も過去や現在の行動を正当化するだけのものではない。将来に対する“言い訳”が生まれるとき、それは「ビジョン」や「思想」と呼ばれるようになる。私たちが「未来はこうあるべきだ」「社会はこう変わっていくべきだ」と語るとき、そこにもまた想像力を働かせ、綿密な“理由づけ”を行なっている。要するに、現在を肯定するための理由づけが「言い訳」とされるなら、未来の在り方を肯定するための理由づけは「ビジョン」や「思想」として高尚な響きを帯びるだけであり、どちらも本質的には“どこを基準に正当化するか”の違いでしかない。
さらに言えば、人間が本気で言い訳を考えるのは、往々にして何らかの環境的・社会的な制約に直面したときだ。限られた時間や資源のなかで、どうにかこうにかやりくりする必要があるときこそ、新しいアプローチや柔軟な発想が生まれる。言い換えれば、「この状況で何とか自分を正当化しなければならない」という切迫感が、創造性を突き動かす原動力となるのだ。些細な遅刻の理由にせよ、壮大な人生の目的論にせよ、周囲に納得してもらうために私たちはあらゆる角度から思考を巡らせ、“言い訳”を組み立てていく。それは決して後ろ向きな行為ばかりではなく、新たな選択肢や可能性を見出すトリガーでもある。
要するに、私たちが何かを語るとき、そこには必ず理由づけがあり、それが「言い訳」と呼ばれるか、「ビジョン」や「思想」と呼ばれるかは、置かれた文脈や視点の違いにすぎない。そして、いずれの場合でも人間は独創的なアイデアを紡ぎだし、物事を再構成する力を発揮している。言い訳には後ろ向きな響きがあるかもしれないが、そこに宿る創造性こそが、私たちを新たな一歩へと導く原動力になり得るのだ。